おじぞうさんのシネマだより

みなさん、はじめまして。「おじぞうさんのシネマだより」を運営しております、よっしーです。映画を通じて、生きていることの豊かさを共有していけたらと思っています。おじぞうさんは、わたしの小学校時代のニックネームです。よろしくお願い致します。

【映画】『日日是好日(にちにちこれこうじつ)』~こころのゆたかさについて~

こんにちは。

 

おじそうざんのシネマだよりを運営しております。よっしーです。

 

先日、10/13㈯~公開の

日日是好日」を観てきました。

 

 

あらすじ

 

大学時代に、一生をかけられるような何かを見つけたい。でも、学生生活は瞬く間に過ぎていきー。典子(黒木華)は二十歳。まじめな性格で理屈っぽい。おっちょこちょいとも言われる。そんな自分に嫌気がさす典子は、母(郡山冬果)から突然の勧めと、「一緒にやろうよ!」とまっずぐな目で詰め寄る同い年従姉妹、美智子(多部未華子)からの誘いで、”お茶”を習うことになった。まったく乗り気ではない典子だったが、「タダモノじゃない」という武田先生(樹木希林)の噂にどこか惹かれたのかもしれない。

 

稽古初日。細い路地の先にある瓦屋根の武田茶道教室。典子と美智子を茶室に通した武田先生は挨拶も程々に稽古をはじめる。折り紙のような帛紗さばき、ちり打ちをして、棗を「こ」の字で拭き清める。茶碗に手首をくるり茶筅を通し「の」の字で抜いて、茶巾を使って「ゆ」の字で茶碗を拭く。お茶を飲み干すときにはズズっと音をたてる。茶室に入るときは、左足から畳一帖を六歩で歩いて、七歩目で次の畳へ。意味も理由もわからない所作に戸惑うふたり。質問すると「意味なんわかなくていいの。お茶はまず『形』から。先に『形』を作っておいて、その入れ物に後から『心』が入るものなのよ」という武田先生。「それって形式主義じゃないんですか?」思わず反論する美智子だが、先生は「なんでも頭で考えるからそう思うのねえ」と笑って受け流す。毎週土曜、赤ちゃんみたいになにもわからない二人の稽古は続いた。

 

 鎌倉の海岸。大学卒業を間近に控えたふたりは、お互いの卒業後を語り合う。美智子は貿易商社に就職を決めたが、典子は志望の出版社に落ちて就職をあきらめていた。ちがう道を進むことになったふたりだが、お茶の稽古は淡々と続いていく。初めて参加した大規模なお茶会は「細雪」のようなみやびな世界を想像していたが、なんだか混雑したバーゲン会場の賑やかさだった。それでも、本物の楽茶碗を手にし、思わず「リスみたいに軽くてあったかい」と感激してしまう。就職した美智子はお茶をやめてしまったが、出版社でアルバイトをしながらお茶に通う典子には後輩もできた。お茶を始めて二年が過ぎる頃、梅雨時と秋では雨の音が違うことに気づく。

「瀧(たき)」という文字を見て轟音を聞き、水飛沫を浴びた。苦手だった掛け軸が「絵のように眺めればいいんだ」と面白くなってきた。冬になり、お湯の「とろとろ」という音と、「きらきら」と流れる水音の違いがわかるようになった。がんじがらめの決まりごとに守られた茶道。典子はその宇宙の向こう側に、本当の自由を感じ始めるが…。

 

お茶を習い始めて十年。いつも一歩前を進んでいた美智子は結婚し、ひとり取り残された典子は好きになったはずにもお茶にも限界を感じていた。中途採用の就職試験にも失敗した。お点前の正確さや知識で後輩に抜かれていく。武田先生には「手がごつく見えるわよ」「そろそろ工夫というものをしなさい」と指摘される。大好きな父(鶴見辰吾)とも疎遠な日々が続いていた。そんな典子にある日、決定的な転機が訪れるのだが…。

 

 

 10/13㈯の午後 池袋にて

24節気で言うところ、寒露にあたる(だと思います)10/13㈯がこの映画の公開日。前日から、席を予約して、朝からひと仕事終えて、池袋ルミネの8階にある「シネリーブル池袋」へ。すぐそばには、「銀座ライオン」があるという好立地です。

 

映画の余韻を肴に、美味しいビールをいただくことは幸せへの近道のように思います(笑)

 

観ることになったのは、樹木希林さんが先日お亡くなりになられたこと。そして、なにより『日々是好日』の言葉が自分の胸に染みてくる。そんな人生の不思議なタイミングが、この作品へと私を誘うことになったのだと思います。

 

 

上映時間の10分ぐらい前に到着して、ご高齢の方が多いなあというのが最初の感想。お茶の映画だから当たり前なのかもしれませんし、地味な作品ですからね。それも当たり前 。でも、なんだか解せない気持ちもある。席も公開日なのにも関わらず、7割程度の埋まり具合。

 

解せない。。。

 

予約の席の意味‼

 

う~ん、まあ仕方がないのか。もっと、観る人がいてもいい映画だと思うのだがと勝手に憤ております。

 

 

生きていることを味わうということ

コンビニの仕事をしていると、季節の移ろいを感じることは多いですがそれはなんといっていいのか。ビジネスとして感じるだけになってしまうというか。

 

なにか哀しいほどに「仕掛けていく」あるいは「処理していく」という感覚に近いような感触なんですね。例えば、いまだとハロウィンが近いのでかぼちゃ関連の商品などをまとめて展開していくんですが、わくわくしないこともないですし、少しの達成感もないではないですが、あくまでそれはお仕事としてのそれに過ぎないという感じがします。

 

この映画のように季節を純粋に味わったりはできていないと思んです。

 

例えば、原作にこんなくだりがあります。

 

前は、季節には、「暑い季節」と「寒い季節」の2種類しかなかった。それがどんどん細かくなっていった。春は、最初にぼけが咲き、梅、桃、それから桜が咲いた。葉桜になったころ、藤の房が香り、満開のつつじが終わると、空気がむっとし始め、梅雨のはしりの雨が降る。梅の実がふくらんで、水辺で菖蒲が咲き、紫陽花が咲いて、くちなしが甘く匂う。紫陽花が終わると、梅雨も上がって、「さくらんぼ」や「桃の実」が出回る。季節は折り重なるようにやってきて、空白というものがなかった。

「春夏秋冬」の四季は、古い暦では、二十四に分かれている。けれど、私にとってみれば実際は、お茶に通う毎週毎回がちがう季節だった。

 

どしゃぶりの日だった。あめのおとにひたすら聴き入っていると、卒然、部屋が消えたような気がした。私はどしゃぶりの中にいた。雨を聴くうちに、やがて私が雨そのものになって、先生の家の庭木に降っていた。

 

(「生きてる」って、こういうことだったのか!)

ザワザワッと鳥肌が立った。

 

お茶を続けているうち、そんな瞬間が、定期預金の満期のように時々やってきた。

                           (原作 まえがき p7)

 

 

 

とても素敵な文章だし、その体験の中に自分がいるような気持ちにもなりますね。いま、このときをじっくりと味わって生きている。そんな印象を持ちます。

 

原作者の森下さんは、お茶を通してこの境地に至っていますが、なにもお茶にこだわる必要はなくて、こういった自分の外にある季節に対してもそうですし、うちにある自分自身の喜びや哀しみといった感情をじっくりと『味わう』こと、いまここにきちんと生きていることに集中することは、とても大切なことのように感じるのです。

 

 

年齢を重ねるごとに、時間が過ぎるのが早くなっていきます。なんだか、さらさらと時間だけが過ぎていて、さらさらと年月だけが過ぎていくだけで、いつの間にかおじいちゃんになって死んでしまう。そんな自分を想像するとむなしくなることがあります。

 

 

1回だけの人生。こんなことでいいのかな。自分は満足なのかな。

 

 

日々のことが、自分自身の充実感や満足感とは別の責任感や惰性で、コロコロと転がって死への坂道を徐々にスピードを上げながら進んでいるような感覚に時折なります。

 

 

目標を立てたりもします。でも、あくせくしてるんですよね。深いところには、おらず。浅いところで浅い呼吸をしながら、できた・できていないをやっている。

 

 

この作品は、そんな私にきちんと「生きていることを味わう」ということを教えてくれているような気がしました。それは、樹木希林さんの存在も大きいことは言うまでもありません。

 

最後にまた引用させてください。

 

 幸せな時は、その幸せを抱きしめて、百パーセントかみしめる。それがたぶん、人間にできる。あらんかぎりのことなのだ。

 だから、だいじな人に会えたら、ともに食べ、共に生き、だんらんをかみしめる。

 一期一会とは、そういんことなんだ…。

                               (原作 p196)

 

自分がだいじだと思える作品に出会えることも、一期一会。百パーセントかみしめながら、こころのゆたかさについて感じることのできる作品でした。映画・原作ともにおすすめです。